2012年3月13日火曜日

日々の備忘録 62

1年経って(日々の備忘録62)


親戚の一部の家族では家に住むのが危険ということで,山形の旅館などへ自主非難する者も出てきました。
電話で少々話をしましたが,みな元気ということで一応の安心はしたのですが,浜通りの親戚へは連絡がつかない(というかこういうときは先方から連絡があるまでちょっと待ったほうがいい,という場合もあります。といっても未曾有の震災ですから,なにもしようがなかったといえます)日々でした。

僕の父母は,生まれてから今までずっと福島に居を構えていましたので,もう年も70,80を迎えつつあるので,いまさらこの家を引き払って。。。というのはまったく考えていませんが,親戚の一部では,かつては都会に暮らしていたが,事情で福島に戻ってきた家族というのもいて,そういった親戚の間では,いますぐにでも福島を出たい,という声も聞かれました。

その中で何を手伝えばいいのか,というのは正直難しかったです。

中には遠まわしですが,僕の家に当分住ませて欲しいという声も若干ありましたし,ただ僕も引越し早々で,かつ前の部屋はもう買い手がついていましたし,その他もろもろ事情もあり,なかなか難しい選択でした。

当面の何かの手助けになれば,と思い送金をいくらかしていましたが,別に感謝されようとしてしたわけではありません。
ただ,このような心情の中では,援助をしたことにより,かえって相手の感情を逆なですることがあるのだ,ということに気づかされました。

「あんたは,福島捨てた人だから…」

という声も聞かれました。

「捨てた」

要するに,福島出て行った人に私らの気持ちは分からんでしょ?

という意味です。

これはとても痛い言葉でした。いまも胸の奥にしまっています。
相手も,別に僕に憎悪の気持ちで言っているわけではないことは重々分かっているつもりですし,たまたま僕は福島で暮らさず都会に出てきてしまって,結果今でも居ついてしまっているわけなのですが,いろいろな事情で福島でずっと暮らすということを苦痛に感じている人がいるのも事実です。

震災がいろんな意味で心を閉ざす原因になっていることを痛感しました。

その親戚からはその後,お詫びというか気持ちのこもったお手紙を頂戴しました。
ただ地元で仕事をもっている親戚や友人達の方々の気持ちを考えると,
「頑張ろう」とか「元気出そう」とか,そういう簡単な言葉は出ません。


時間はちょっと経過しますが,

「猪苗代湖ズ」,っていますよね。

この曲を聴くと,どっと涙があふれるので,自分からは絶対に聴かないようにしてるのですが,
このバンドが出てきたとき
「あんまり余計なことしないほうがいいのにな…」

と正直思いました。

先般の親戚が僕にあびせた言葉のこともあったので,たぶん地元の人々でも,応援する人と,不快に思う人,がはっきりと分かれると思ったからです。

メンバーの箭内道彦さんのインタビューを最近読みました。
ご本人達も同様だったようですね。活動自体も悩んだ末の決断のようでした。
応援してくれる人もいれば,「お前ら福島に住んでないくせに…」というネガティブな反応もやはりあったみたいです。
ご本人達も承知だったのですね。

でも,何もしないよりは,反感を買われるかもしれないが,なにかやれるのであればやってみよう,という行動はとても応援していきたいと思います。
インタビューでもあったのですが,「いま福島に住んでいる方々」と「かつて住んでいた方々」との間では,温度差や感情のしこりがあるのはどうしても仕方のないことです。
かといって,かつて福島に住んでいた人々が,応援したいあまりに仕事も家族も福島に戻すということは,今の時点ではある意味二次的な被害の拡大ともいえます。

いったん福島を出てきてしまったからこそ,いま自分達がふるさとに対して出来ることをする,そういう考えの方は,結構多いのではないかと思います。

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