2012年3月12日月曜日

日々の備忘録 61

1年経って(日々の備忘録61)


あれだけのもの凄い震災で,今も苦しんでいる人がいるというのに,福島出身者の私ですら,記憶があいまいになってしまうというのは自分としても,忘れたほうがいいのか,記憶に残しておくべきなのか,日々とても悩んでいました。
それを改めて何度か書こうと考えてはやめ,考えてはやめ,の繰り返し。
そういうお気持ちの方は結構大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
3月11日にブログやSNSにコメントを載せていた方も多くいらっしゃいますが,なかなかそのようには行動に移せませんでした。
ただ,こうして少しずつですが,何かに記録しておきたい,という気持ちのほうがまさったのでちょっと書いていきたいと思っています。


このブログも,以前は他のSNSサイトにリンクを貼っていたのですが,いったん全部そのリンクは外した状態でいます。
もし,RSSフィードとかで登録されているという方がいらっしゃったら,また見ていただけているかもしれません。

普段の自分の楽しい部分,趣味や,仲間と楽しくやりたいときはSNSとかで発信していきたいと思っています。ここに載せるときは,鏡の向こうの自分,対岸の自分が何か考えを思い巡らしたときの言葉になるのかな,と思います。

思い出すままにキーを叩いているので,あやふやな表現はお許しいただければと思います。



昨年の今頃,僕の家庭では,家の引越し作業をしていました。
自宅は都心のいわゆる高層マンションと呼ばれる集合住宅の低層階に住んでいましたが,子供が二人になり,長男も小学生になり,かなりの手狭となりました。
ここに来た当時は子供がいなかったので,いわゆるDINKS向けの部屋を買ってしまっていたからです。
そこで,同じ学区,同じ保育園に通うには,特に保育園は別の町に越してしまうと,再度入園の順番待ちから始めねばならないので,同じマンション内で広い部屋に移るのがベストと考えました。

そうした中,数ヶ月部屋を探していたのですが,ようやく話がまとまったのが2月で,引渡しを受け,ようやく引越し作業にとりかかるところでした。

地震の日は妻ともども,会社を休んで(子供達は学校と保育園に行かせ),荷造り作業の真っ最中の中でした。
ガスやライフラインも引越しの関係で止めてしまった中であり,またほとんど荷造りを済ませ梱包していたため,レベルの差はありますが,都心の中で家族全員で途方に暮れるという状態ではありました。
もちろん引越し業者さんは来れなくなり,ようやく夜に来てはくれたのですが,エレベータも止まってしまいましたし,作業は延期で一度帰っていただくという状態でした。

ですが,テレビで各所の惨状を見たり聞いたりする度に,これはただごとではないという感覚が襲いました。
そんな中,夫婦と子供達が比較的近所に留まっていたというのは不幸中の幸いでした。


都心とはいえ,僕の家ではライフラインが止まってしまいましたので,何か適当に乾物系の食べ物を段ボールから出して食べてはいましたが,比較的,ご近所のお店で物資は逼迫しておらず,また翌日は長男の同級生の家族とちょっとした食事会をマンション内で行うことになっており,引越しの最中であったことから,同級生の親御さんたちからも,かえって同情していただいたりなどし,ちょっと緊張の緩みもあったかと思いますが,「うるさい」とご近所から苦情がくるくらいの飲み会になってしまいました。
本当に物資が無くなり始めたのは,それから数日後だったかと思います。
もちろん,無くなったとはいえ,被災された地域に比べれば,まだまだ恵まれていたと思います。

数日経って,引越し業者さんが再度,訪問してくれまして,やっと荷物の移動だけは終わりました。
なかなか荷をほどくところまでの気力が続かないものでしたが,それでも度々訪れる余震は,階が高くなったせいか揺れを大きく感じることもありました。
僕は高所がかなり苦手(怖い)ですので,高いところにいることに加え,揺れの大きさには正直まいっていました。
もちろん,鉄骨構造ですので,その安心感はあるのですが,階の高さは初めて経験するものでしたので,なかなか慣れない時期ではありました。


そうこうしているうちに,福島の実家とも連絡が取れるようになりました。

伊達市に僕の実家はあります。
発電所から,ざっとですが80km離れています。

実家には特に損傷はありませんでしたが(あったかもしれませんが,あまりそういうことは気にしない親なので),すぐ近所の叔母の家が,屋根瓦が大量に落ち,屋根そのものの損壊もありました。
他の親戚もほとんどは無事でしたが,浜通りにある父の兄の家族とは連絡がとれずというか連絡の取りようもない状況だったかと思います。

父は
「お前が心配することはない」と言って詳細は伝えてくれませんでしたし,消息捜査のサイトなどを見ても情報が集まっておらず,どうしたものかと思っていました。
普段はめったに会いに行かないだけに心配は募るものだということを改めて思いました。

そうこうしているうちに,数日から1,2週間は経ってきたでしょうか,実家の生活の様子もだんだんと分かるようになると,今度は発電所の影響がだんだんと心配になってきたのでした。

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